批判・評価ということ

今日日本史の時間、M先生が、

批評するということは、その評価する人が評価されるものより優位に立てるということ

…要約するとこんな感じのことを仰っていて、こんな批評系ブログを書いている私にはちょっと興味が。



僕が一番関心を持っているのはインターネットにおける批評のあり方…なんですね
言い換えるならば、部外者からの批評の正当性というか。


要するに、専門知識を持たなければ理解できないことがあるとします。
でも、それは一見すると常識的に考えて理解できそうに思えます。
すると、専門知識を持たない人の、何の意味もない批評が生まれます。
しかし、それは、専門知識を持つ人に影響力がなければ、体制の意見になるわけです。
よって、間違った意見が常識として定着してしまいます。


で、このプロセスのうち、専門知識を持たない人の、何の意味もない批評が生まれるわけ、というのは、M先生の仰るとおり、優位性の確保欲求がひとつにあるんじゃないか、と思うわけです。


何でこんなことをウダウダウダウダ書いているかというと、上記のようなことがインターネットでは容易に起こるわけです。
まあ「むむ、これは専門知識が要るな」と分かればその批評の問題点も見えるのですが、そういうのがわからないと間違った意見がその人の常識として定着してしまいます。


つまり、(どこかのタラコクチビルさんの言を借りると)「うそはうそであると見抜ける人でないと(インターネットを使うのは)難しい」というわけです。

何か今回の選挙見てても感じましたけどね、選挙権がないというのはつらいね。


わが身を振り返ってみると、確かに「オレってえらいねェーッ」という感情で書いてる気もしないでもないという。。
意識していない問題はまさしく問題だww